知識と発露

中医学の鍼灸や漢方の古典から治療法を紐解く治療家は、古代中国の名医が書いたとされる古書の漢文から治療法を読み解き、自分の治療に落とし込みます。

昔の名医は、現代のように豊富な情報や解剖学的知識もない中、現場で必死に引き出した経験と、治療効果があった知恵を積み重ねてゆきました。

まさに、抜き差しならない状況の中、鍼と艾、生薬という原始的ともいえる方法で重度の病人をも診たのです。

後は、その時、その治療家の知識と経験を武器に、必死に自分の直感と患者を救うという気持ちで、その状況を乗り越えていったのだと思います。

人は、瀬戸際の所まで追い詰められると、その生命力をもって乗り越えようとします。

まさに、《火事場のバカ力》です。

それは、単なる筋力だけではなく、その場の対応力、閃きも入ります。

そういう、現場の知恵を、もう一度使えるように、古典から学んでいくのです。

そして、もう1つのキモは、難解な漢文から、自分の技術に落とし込むという作業です。

古典に書かれている漢文は、現代の中国人にも、中々読めません。

私達が、昔の日本の古典を読むのが難しいのと同じです。

それを、さらにもう1回訳し直すようなものです。

読み解くには、かなりのセンスが必要になります。

そして実際に使っていくには、自分が臨床の中で、再確認していかなければ、なりません。

要するに、今の自分の知識と経験から、古典に書かれている難解な情報を《鍵》として、臨床という生きた現場で、実際を堀り出してゆきます。

それは、《鍵》という指標はあれども、結局は自分の感覚を信じて、自分だけの治療に落とし込むしかないのです。

分かり易い知識を得たとしても、治療には多少しか役に立ってくれません。

新しい知識を学び、自分に理解出来る事柄を腑に落とし、さらに実際に使って検証していく事で技術が身に付いてゆきます。

そして、同じ事を繰り返してゆく中でも、次第に、新たな発見をしていくという側面が現場には、あります。

そうして、1つづつ積み重ねていったものだけが、本当の技術になってゆくのだと思います。

僕は、中医学の《陰陽論》は、前頭葉の《二値的》な判断と、身体が行う、その間の行間を見いだす《情報処理》の事を、論じているのではないかと考えています。

《虚》と《実》を展開してゆく事で、《病》の成り立ちが観えて来ます。

身体に現れる、まるで数学的とも言える様な、フォノグラムの変化を、古代の中国の医学者が、当時の観念を通して導き出したのだと思います。

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